SNGから紡ぎだされたブログです。 - 新月の夜を経て、空は黎明を迎えゆく -
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暗い話ですので、ご覧になる際はご注意ください。
以下、自分の気持ちや、自分や彼女らに宛てた言葉を残しておきます。
先日、一人の方を亡くしました。
家族でもなく、友人でもなく、知人でもない。
私の立場からすれば、お客様です。
休み明けに出勤した私が知ったのは、その方が救急搬送されたという知らせでした。
そしてその日の夕方、息を引き取ったことを先輩から教えてもらいました。
衝撃を受けたけれど、勤務に支障をきたしてしまってはいけない、
今は深く考えてはいけない。
もしかしたら、そう思っていたのかもしれません。
そのときは実感すらなかった。
でも同僚はとても心を痛めていました。
私達にとって、長くかかわってきた人を亡くすのは、初めての経験だった。
彼女は亡くなる前日にその人とかかわっていたから。
無事な姿をみて職場を後にしたのに、次の日に着てみたらその人はもう、どこにもいなかったから。
この仕事は、お客様の日々の生活に深くかかわっている仕事だ。
血の繋がりもなく、まして友人知人ではない。
けれど、一緒に過ごしている時間を考えたら、家族よりも長い時間接していると思う。
そんな人たちを喪っていくのは、辛いことだ。
祖父を喪ったとき、私は思ったものだ。
『悲しいという感情さえ、この現実に追いついていない』 と。
けれど、この虚無感や非現実的な現実に追いつけない感情こそが、死に対面したが故のものなのだとも。
死装束をこの手で祖父に身に着けてもらうときも、納棺のときも、静かな悲しみが襲ってきただけ。
もしかしたら泣いていたかもしれないけれど、もう忘れてしまった。
本当の意味で悲しみに支配されたのは、火葬しているときだった。
見たこともない親戚は、普段の感じでしゃべって火葬が終わるのを待っている。
私にはそれが信じられなかった。
そして葬式のとき、泣いている伯母と泣いているであろう母を後ろから見ていて、
私より辛いだろうな、と思った。
少し思ったこと。
悲しみを受け止めたなら、泣いてもいいと思う。
悲しいときに泣いたらいい。
誰が一番悲しいか、なんて考えてしまわなくてもいい。
比べられるものでもないし、比べるべきものでもない。
どれくらい悲しいかなんて、当人にしか推し量れない。
そう考えてしまって、感情が昇華できないままでいるのは、辛すぎるから。
けれど、それが間違いであるともいえない。
悲しんでいる人のことを慮って行動することだって必要だから。
私は悲しみを比べて、悲しんでいる人を前に何も出来なかった。
自分を支えるだけで精一杯で、悲しみにのまれないようにするので精一杯だった。
もっと何か出来たはずなのに、戸惑うことしか出来なかった。
今回、私が出来たのは、彼女の悲しみを正当化しただけかもしれない。
悲しみを比べて、感情を律しようとしていた彼女に、そんな必要はないのだと、伝えて。
悲しみの形はいくつもあって、それが溢れてしまってもいいのだと。
これから、私にも彼女にも、こうした別れはやってくるのだ。
そのときに、ここに書いたことを忘れないようにしたい。
きっと私は同じような思いを抱いて、立ち止まってしまうだろうから。
これを最後まで読んで、気分を害されてしまった方、本当にごめんなさい。
そして、ご冥福をお祈りしています。
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